プラネット薬局 | 日記 | 東京散歩ブログ 深川周遊 ふたたび その2

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プラネット薬局 の日記

東京散歩ブログ 深川周遊 ふたたび その2

2014.07.31

東京散歩の誠兵衛です。
カメラ片手に出掛けた東京都内や近郊のおすすめ街歩きコース、飲み歩きスポットを
ご案内するブログです。

時には番外編として折々のトピックスやイベントのご紹介もしてまいります。

今回は、以下のコースを散策します。
深川東京モダン館 → 心行寺 → 法乗院(深川えんま堂) → 深川不動尊
→ 富岡八幡宮 伊能忠敬像 → 旧弾正橋(八幡橋)→ 江戸 三十三間堂の跡


最寄り駅は都営大江戸線・東京メトロ東西線「門前仲町駅」。
前回のコースはこちらをクリック →



深川東京モダン館


伊能先生居宅跡から清澄通りに向かうと僅かな距離で深川東京モダン館にたどり着きます。
深川東京モダン館は、有形文化財建造物「旧東京市深川食堂」をリノベーションした施設で、
江東区を対象とした観光案内スペース、また展示や落語会などのイベント開催や貸施設空間として
活用しているそうな。
2階のレストランに上がる階段部分は昔のタイル張りでレトロな雰囲気が漂っています。江東区の
観光案内地図やイベント紹介のパンフレットが置いてある他、地元に詳しい観光ガイドが常駐されているので、
深川だけでなく江東区の穴場を教えてもらえます。




心行寺 (しんぎょうじ)
深川モダン館で一息入れ、清澄通りを左折北上すると通りの右側にお寺が並んでいます。
元和2年(1616)に八丁堀(中央区)に創立され、寛永10年(1633)にこの地に移りました。
錦帯橋を架橋した岩国藩主吉川広嘉の妻、養源院の開基です。境内には、江東区最古の五重の塔や、
墓地に五世鶴屋南北、「赤蝦夷風説考」の著者工藤平助の墓などがあるとのこと。

五重の塔と聞いて前回訪れた池上本門寺のような塔を探してみましたが、見当たりません。
と言うかあんな立派な塔ならば、お寺に近づく迄に目に付くはず。

池上本門寺に行った時のブログはこちらをクリック → <リンク>

あった、ありました。

境内の一角に案内板が。そしてその隣に五重の塔と言うよりも五重の石。これも立派な塔なんですね。
世の中、先入観を捨てないと、見えてこないものがあるもんだ。目からうろこ。


.


法乗院(深川えんま堂)ほうじょういん(ふかがわえんまどう)
心行寺のお隣(門前仲町寄り)に「深川の閻魔さん」こと法乗院(深川えんま堂)
法乗院は、
寛永6年(1629)の創立で、江戸時代から「深川の閻魔さん」と親しまれてきたそうです。

深川えんま堂を後にして清澄通りを門前仲町方向に南下し、永代通りを左折。
ほどなく深川不動尊に続く人情深川ご利益通り入口、さらに進むと左手に富岡八幡宮の鳥居が見えます。



伊能忠敬像
境内に入って直ぐ左に誠兵衛が尊敬する伊能忠敬先生の像が東の方角を向いて建っている、
と言うよりも先生が歩いていらっしゃる。
伊能先生は佐原の庄屋、米問屋・造り酒屋の家督を息子に譲って隠居。第二の人生を天文学の勉強に
捧げんと、ここ江戸は深川に居を構え、幕府天文方高橋至時先生に弟子入り。その後子午線一度の
距離を実測するという目標を立て、その実現のため、蝦夷地沿岸測量の旅に出られた。
以降日本全土の海岸線を実測し、本邦で初めて科学的な測量に基づく『大日本沿海輿地全図』を完成させられた。

その偉業も、ここ深川八幡宮に旅の無事を祈りに詣で、最初の蝦夷地測量の旅の第一歩を印し、
以降4千万歩を歩きとおしたその実直さ、自らの目標に対する真摯な取組によって達成されたもの。

像の前に立つと、それらのことが思い出され、誠兵衛思わず先生の像に縋りつきそうになりました。
しかしそんなことしたら、不審者として通報されるでしょうから、ぐっと我慢し、先生に最敬礼しました。




富岡八幡宮
江戸三大祭りの一つ「深川八幡まつり」で有名な富岡八幡宮。3年に一度催される本祭りでは、
50基余りの神輿が街中を練り歩く神輿連合渡御が行われ、担ぎ手に水を掛けることから別名「水掛け祭り」とも
称されるその光景は勇壮無比。江戸の情緒を盛り上げるそうな。また富岡八幡宮は、勧進相撲発祥の
地であり相撲と縁が深く、「ちから石」「横綱力士碑」「大関力士碑」などが境内のあちこちにあります。




旧弾正橋(八幡橋) きゅうだんじょうばし(はちまんばし)
富岡八幡宮から東に向かうと遊歩道があり、その中ほど遊歩道を跨いでいるのが、国の重要文化財に
指定されている都内最古の鉄橋、旧弾正橋(八幡橋)。

明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作。当初は中央区に架けられましたが、
関東大震災後に富岡八幡宮の東隣りに移され、八幡橋と改名されたとのこと。明治初期の橋の
風格を持ち、菊の紋章が取り付けてあり、橋梁史の上からも貴重な橋なんだそうな。
まだ現役で頑張っている。大したもんだね、明治の技術。




江戸 三十三間堂の跡
旧弾正橋から東に向かい2つ目の通りを右折した辺りに江戸 三十三間堂の跡を示す掲示があります。
江戸三十三間堂は、寛永19年(1642)に京都の三十三間堂(蓮華王院)に模して浅草に建立され、
元禄14年(1701)に深川に移されたそうです。本家京都の三十三間堂は通し矢で有名ですが、
江戸三十三間堂においても、弓術稽古のために通し矢が行われていたそうな。残念ながら
明治5年(1872)に破棄解体。 江戸にも三十三間堂があったとは知らなんだ。


<ここで一句>
深川で とうとう見つけた 五重塔
一歩ずつ ついに歩いた 4千万歩
猛暑日も 何処吹く風の むくげ花

今回はここまで。
東京散歩の誠兵衛でした。

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